Personal Interview
―SHINGO(前編)

メンバーひとりひとりに、幼少期~the superlative degree活動に至るまでの歴史を語ってもらう、パーソナルインタビュー企画。
第一弾はDrum:SHINGOが登場!
今回は、リハの打ち上げの席の片隅でSHINGOにマネージャーが話を聞きました。
たくさん喋ってもらったので、前後編に分けてのお届けです。
――― 幼少期・生い立ちから教えてください。
えっと…○○小学校に入学したけど、1週間ぐらいで長崎市立○○小学校に入学しました(笑) ……てかなんて喋ろうかな?
幼少期……生い立ちやろ?
――― はい、どんなお子さんでしたか?
お袋に、よく話を聞いてたのは「まー落ち着きがない」と。
ちょっと目を離したら、もうどっか行っちゃうと。
長崎で生まれて、大阪にも住んでたことがあったんだけど、大阪時代に大きな団地に住んでて、いっぱい車が停まってる駐車場で、人の車のフロントガラスで滑り台みたいに遊んどったらしい。
とにかく外に出たい、出たがりだったんやろうね。落ち着きがなくて、黙っているのが嫌やった。
今はもう黙っときたい(笑)、もうなるべく家でゆっくりしたいタイプだけど……40歳ちょいまでは、もう何かしたい何かしたいで、全然落ち着きがなかったかもしれないね。
――― 40歳ちょいって割と最近じゃないですか。。
…じゃあ39まで(笑)。
じっとしてられない、大人になっても思い立ったらすぐ行動するタイプ・夜中でも模様替えするタイプ。
子供の頃はいつもどっか行っちゃってお袋がずっとすげぇ探し回ってたみたい。
――― お母様大変でしたね……。 ごきょうだいはいるんですか? ひとりっこ?
俺は長男で、弟がいるんだけど弟は逆に大人しい。
俺はひとりであらゆる場所に行っちゃうから、よく「鉄砲玉」って言われてた。 もう行ったら帰ってこん、と。
…「鉄砲玉」って表現大丈夫かな? あっちの世界でも使うけど(笑)。
――― 大丈夫です(笑)。
4歳の頃、お袋がまだ赤ちゃんだった弟を連れて出かけた時に、俺が出らんように鍵閉めて出て行ったのに……
昔って台所の前にある硝子窓に鉄格子がなかったのよね。
キッチンのシンク登って、そこから廊下に飛び降りてどっかに遊びに行ってた。 それで夕方まで帰ってこん。
お袋には、よう怒られとったよ。
でも、そういうのって、もうずーっとで。 小学校の時も中学校の時もそうやった。
――― 通信簿に書かれませんでした?
書かれた! 通信簿にもいっつも「落ち着きがない」って書かれてね。
絶対授業を妨害するから。 ちょっとでも真面目に勉強したくない一心でふざけてね。
――― あぁー…そういうちょけたお子さん、居ましたよね。。
俺。俺俺。それ俺。
▼ 貴重な時代のお写真をご提供いただきました! とてもかわいいお子時代。(クリックで拡大)
――― そんな少年がどうやって音楽と出会っていくんですか?
出会った……っていうかね、俺は元々ジャニーズとかが好きで。 「ザ・ベストテン」の時代ね。
バク転とか器械体操、体操選手も好きやったから……
ジャニーズもバク転とかするじゃない? だから最初はそういうのを目指してた。 バク転・前宙とかいっぱい練習しとったよ。
でも「ザ・ベストテン」で一番最初に衝撃受けたのがC-C-Bやったのよ。 ピンクのメッシュのドラムが歌うやつ。
で「ドラムっていいな~」って思って。
そっからいっぱい、いろんなバンド出てくるんやけど、安全地帯とか。
俺アイドルも好きやから、明菜ちゃんも大好きやし、松田聖子ちゃんとかも好きやったけど、
でも何かずっとそのドラムのことが心にあって。
小学4年生の頃、音楽のタンバリンの授業の時に、先生に「あなたはリズム感がすごい」って言われてね。
そっからその先生に、指揮者もさせられたし、器楽クラブにも入らさせられて。
週に1回か・2週間に1回か忘れたけど、音楽集会というのがあって、そこで器楽クラブのメンバーが演奏して歌を歌ったり、行進曲を叩いて生徒を退場させたりするんだけど、大太鼓・小太鼓・アコーディオンなんかのメインの楽器は花形だから絶対6年生が担当するのに、俺は「アンタは才能があるから」って4年生から小太鼓をやらされてたの。
そっからだね、太鼓に初めて触れて。
その先生から特訓させられてね。俺だけに厳しい。大太鼓には優しいのに(笑) 。「もっとできるでしょ?!」みたいな。
そこから練習して、余計ドラムに興味を持ちだして。 それでも小学6年ぐらいまではやっぱり「ザ・ベストテン」なんだけど。
やりたいやりたいと思うけど、とにかく田舎だからどうやったら・どこ行けば練習できるとかも分からないし。
中学校入って先輩たちもバンドをやってて、そっから色々教えてもらって、いろんなバンドに出会って…。
先輩の家にドラムセットがあったから、そこに練習に行って…そっからかな、本格的にやり始めたのは。
友達がバンドに誘ってくれたのがキッカケだと思ってたけど、一番最初はもうあの音楽の先生よね。 ドラムの世界に引きずったのは。
「あなたはリズム感がいい」って褒められた時から始まってるわけ。 そっからずっと頭にあった。
音楽は元々好きだったけど、だからドラムの世界に入ったのは小学4年生。
――― 先生、先見の明がありますね。
恩師やね。 10年前くらいかな?にも会うたしね。
――― 初めて自分の意思で買ったCDとかも「ザ・ベストテン」時代の何かだったんですか?
いや、俺はずっとCD持ってなくてね。 小学生の時はまだラジカセやって。
ラジカセに、ラジオのチューナー・テレビのチューナー・録音ボタンがあって、マイクが内蔵されてたの。
テレビの近くに行って、音楽番組が始まる時に録音ボタン押して、ずーっと録音してたよ。
――― お母さんが「ご飯よ~~」とか言うと声が入っちゃうやつですね。
そうそう、「黙れー」って言ってた(笑)。
あとはもうラジオから流れるやつをタイミングよくポチッと。
けど曲の入りにナレーションが絶対入ってるのよー。黒柳徹子さんみたいな「それでは聞いてください」的なやつが。
でもそれをいっぱい録りだめてたな。
中学生の時にCDが出だしたけど、CDプレーヤーも買えなかったからずっと持ってなかったなぁ。
中学3年か高校1年くらいまで持ってなかったと思う。
だから初めて買ったCDって覚えてないかも。
……あ!
……いや、わからん! けど、何個か候補がある!
Winkか…KANさんの「愛は勝つ」…森高千里やったかも!?
とにかくあの辺り。
いつの間にか家にCDがたくさんあった、って感じやったねー。
何買ったとかはあんま覚えてないなぁ。
でも初めて行ったライブは覚えてるよ! 田原俊彦。
トシちゃんが地元に来てね。
その頃「抱きしめてTONIGHT」が超ヒットしてて、俺は小学6年生やったかな。
すぐソールドして、立見席があるって噂を聞いたお袋が「アンタ行ってきなさい! 好きやろ!」って言ってくれたから、友達と行ったの。
パンパンでやっぱ2階席やったんだけど、いい大人の中に子供かポツンと立ってたから、「少年、こっちおいで!」って皆譲ってくれて、だんだんだんだん下の方まで行って、通路で立ち見だったけど結局10列目ぐらいまで行った(笑)。
――― ホール公演だったんですね。
そうそう。長崎公会堂。
住んでた家の目の前やった。
――― それでは次に、バンドを始めてからのお話を聞かせてください。
本格的にドラムやバンドを始めても、最初からオリジナルな訳じゃないですよね?
うん、やってないやってない。コピーバンドからだね。
7~8バンド掛け持ちして、パンクバンドもしてた。「産業廃棄物」っていう。16歳くらいでモヒカンやった。
おもろかったよ。 パンクもやって、ロックンロールもやって。
元々レッド・ウォーリアーズとかZIGGYが好きだったからコピーバンドをやって、そっからパンク行って、グランジ行って…色々やったね。
色々誘われて、いろんなジャンルのバンドに入った。
もう殆ど名前も覚えてない。「産業廃棄物」はパンチあるから覚えてるけど(笑)。
「産業廃棄物」は元はSEX PISTOLSのコピーバンドやったんだけど、オリジナルもどんどん入れてったの。
比率が増えて、最終的に半分ぐらい……俺がやめる頃には殆どオリジナルやったかなぁ。
皆コピーバンドやってたから、俺はその時も色んなところ派遣で行ってた。
――― 派遣! ちなみに当時はアルバイトとかしながら活動してたんですか?
うん、建築ばっかりやったかな。
自分たちで手売りするチケットだけで、生活を立ててた時もあった。
しかもチケット代500円やけんね、昔の長崎。
俺結構チケット売りさばきよったんで。最低でも50枚売っとったね。
それが月3~4本あれば、実家に住んどるもんやから……
当時若いし、昔って1万あれば全然過ごせた。 1万でも多いぐらいかな。
中学の頃から新聞配達もしとったし、元々小遣いとかはなかったから、自分で稼いで。
1万なんぼあれば、中高生なら余裕だよ。
チケット売って生活してた時もあったね~。 バイトもいっぱいしとったけどね。
俺が主催して、コピーバンド何バンドも集めて。ひとバンドいくら~って。
でも当時ものすごく(お客さんが)来とったんだよな。全然学生だけど、200人ぐらい来とった。
――― それは来てる層も皆若いんですか?
そうそう、皆高校生とか。
あの当時、何か皆ものすごく来てたんだよなぁ~。ライブハウスに行くのがもう普通、って。
バンドやってる側も多かったし。
ジュンスカとかブルーハーツとかが売れてた頃で、ちょうどブームだったんだろうね。 バンドブーム。
先輩も後輩も皆バンドやってたし、ライブやるっていうと全員来よってたしね。
――― 良い時代ですね。 その後、たくさん掛け持ちしていたバンドは、どんどん絞って行くことになるんですか?
そうね。あと、皆やめていく。
あとはもう「俺もやることがあるから、代わり探してねー」って抜けたり。
この頃から、俺はちょこちょこオリジナルのバンドが増えてきてたから、
コピーバンドの時は聴いてコピーしてやればよかったけど、曲も作るってなると
やっぱり一緒にスタジオ入ってやらんといけなくなって、時間も増えてくるから
なかなかたくさんは出来なくなって、抜けてった。
その頃だったかなぁ。
俺も1回ドラムやめようとしたんだよね。
音楽やめて就職しようと思って、もう1回高校行き直したの。
――― ……もう1回??
あ、そうそう。
高校2回やめてるの。中退。前川中退。
2回目は通信制なんだけど。
――― そういうのって普通は4月に入学した学校を辞めて、2回目って途中月から入り直すものなんですか?
ええとね、最初にいた高校を1学期でやめて、次の年の4月に2回目の入学したの。
――― あぁ! 高校1年生を最初からもう一度やったんですね。
うん。 で、またすぐやめた(笑)。
行き直して1週間くらいで、またドラムの誘いがウワーッと来て、噂を聞きつけた知らん人とかからも声かけられたりで、「これはもう音楽で飯食おう」と思って、学校はすーぐやめた。
2回目の学校は1回しか行ってないかな。
ほら、日曜日にしか行かんから。通信制だからね。
そっからは建築業のバイトやりながら色んなバンドをやり……
俺何バンドやったかなぁ、かなりやったよ。色々誘われたから。
――― 基本的に誘われたら断らない?
そうねぇ、断ったこと……ないなぁ。
やっぱドラム叩くことが好きやったから。
あとは、皆俺の噂を聞いてお願いしに来てくれてたから、嬉しさもあったかな。
期待に応えてあげたいし。
そういう場を与えてもらってるからさ、せっかくやったら俺も頑張りたい、ってやったね。
めちゃめちゃやったよ。
俺以外は皆学生やったけど、絶対日曜日はライブやったもん。
土日の2デイズとかも普通やった。俺は掛け持ちしてるからね。
ダブルヘッダーの時とかもよくあった。結局対バンも友達同士やったから。
…なんばすっとやぁ。 *九州弁か長崎弁で「なにしてんだよ」の意
(まだ残ってるお酒を下げようとするスタッフと、近くの席で野次を飛ばすメンバー)
お前が下げようとするからだろ! まだ飲んでんだろがぃ!
――― 仲良くしてください。
今のやつも書いてね(笑)。
で、なんだっけ。
あぁ、そうだ。
その頃YU+KI(JURASSIC)と一緒にやるようになったんだ。
元々1992年6月14日の俺の初ライブを見に来てて、そこから友達になったんだけど、一緒にやるようになった。
JURASSICの前の前のバンドやね。
――― 後半へ続く!
▼ またも貴重な時代のお写真をご提供いただきました! お子時代からの間に一体何が。 ※YU+KIさん、掲載許可ありがとうございます!